虚構の少年 −螺旋の関係−
痛くて痛くて、あずさは涙を零した。
こんなバカなことって、有る訳が無い。
こんな理不尽なことが、自分の身におこる訳が無い。
こんな人達、知らない。こんな先輩、知らない。こんな自分、知らない。
知らない。知らない。知らない。
こんなこと、おこらなかった。こんなこと、全部、本当じゃ無い。こんなこと、知らない。
明日はきっといつも通りで。
「……また、勉強教えてくれる?」
あずさはぼんやりと呟いた。
「ねぇ、先輩……ね?」
先輩が頷いてくれたら、それが本当だから。こんなことは・・・無かったから。
「ああ、勉強くらい教えてやるさ。」
光伸が、やれやれと肩をすくめる。
あずさは、ようやく救われた気持ちになった。
格好良くて優しい金子先輩・・・金子先輩は・・・そう・・・優しくて・・・怖いことはしない・・・。
あずさの意識が闇に沈む。自分の心を守るための呪文を呟きながら。
「金子先輩ーー!」
火浦あずさが、以前と変わらぬ明るさで2年理乙の教室に入り込んでくる。
あずさが学校を休んでいた3日間、親衛隊を気取る者達だけでは無く、2年理乙のクラス中が少々暗い雰囲気に陥っていた。
いつの間にかあずさは、クラスにとってのマスコット的存在になっていたようだ。
「・・・やぁ、火浦君。」
光伸は完璧に親切な先輩に見えるよう、澄ました顔で上品、かつ丁寧に、あずさに勉強を教えてやっている。
頭が良くて優しい先輩と、可愛くて要領の良い後輩。
傍目にはそう見えた。
あずさが学校を続けて休む前よりも、あずさの訪問は頻繁になった。
ほとんど休み時間毎に教室の中まで入ってくる。
それだけでは無く、寮の光伸の部屋にまで押かける。
片時も惜しまず。そんな言葉が似合うほど、あずさは光伸に依存しているように見えた。
「・・・・・・・」
ほどなくして、金子光伸の理性も磨耗したようだった。
ある日の夕方、寮の部屋の中にまで押かけてきたあずさに向かって、光伸は初めて嫌そうな、迷惑そうな顔を向けた。
「先輩?」
あずさが、不思議そうに首をかしげる。
その様子は、同性である親衛隊の輩が大騒ぎするのも無理は無いほど愛らしい。
「火浦君。」
光伸は低い声を出す。
あずさは微かに身を緊張させた。
「なんですか?」
「君はどうして・・・僕に勉強を教わりにくるんだ?」
判らない問題は、本来なら教授に聞くべきだろう? と、光伸は続けた。
「え・・・。約束・・・したから。」
あずさは小さく答える。
「いつ?」
光伸の問いに、あずさは記憶を辿る。
思い出せない。
「どうして君は、僕と約束したんだい?」
あずさは考える。
約束したことは覚えている。自分が聞いて、光伸が頷いたのだ。
だが、それがいつで、どうしてだったのか。考えると頭が痛くなる。
何故、何時、何処で、誰が、何を、どのように。
英語の構文であった5W1H。2つしか覚えて無い。
なんで僕は、金子先輩と親しくなれたんだろう?
入学当時にあったストームで憧れて、いつも追い掛け回していたけど、こんなに仲良くなったのは・・・ううん、仲良くしてもらってるのは・・・
あずさは額を押さえた。思いだそうとすると、頭が痛い。
「・・・」
光伸は興味深そうにあずさを眺めていた。
「火浦君。」
硬質な声がかけられる。
「はい?」
あずさは痛みに眉をしかめながら、光伸を見上げる。
光伸の綺麗な顔が、冷笑を浮かべていた。
「悪いが、理由も覚えていない約束に付き合う筋は無いな。
僕も忙しい身なので、今後は僕に付き纏わないでもらいたい。」
突然、冷たい水を浴びせられた気分だった。
「どう・・して?」
何度も口を開くが、声として発せられたのは、ただ一言だった。
「君に付き合ってる時間は無い。そういうことだ。
もし、君がどうして僕と約束したのか思い出せたら、少しは構ってあげられるけど。」
くすりと光伸が笑う。この人は、こんな、怖い笑い方をする人だっただろうか?
あずさの背中が寒くなる。怖い。そう、金子先輩は怖い人。
けど、離れるのも嫌だ。離れたら、もっと怖い。もっと怖い人が来る。
あずさは自分の中の気持ちに驚く。何、今の。
金子先輩は優しいのに。金子先輩は怖く無いのに。金子先輩は優しいのに・・・・
ぐるぐると、頭の中で言葉が回る。ぐらぐらする。気持ち悪くて立っていられなくなる。
「火浦君。大丈夫かい?」
光伸があずさの体を支える。
「顔色が悪いな。部屋に戻ったほうがいい。」
あずさにかけられた光伸の声は、さっきと違ってとても優しい。
そう、金子先輩は優しい。あずさはようやく落ちついた。
「あの・・・ご迷惑かけて申し訳ありませんでした・・・。」
蚊の無くような声であずさは呟く。
自分でも知らない理由で先輩を束縛して。
一緒にいたくて。一緒にいなきゃいけない気がして。
でも、多分それは自分だけで。
「ああ。」
光伸が頷く。あずさはまた、身を縮ませる。
でも、離れたくない。離れるのは怖い。離れる方が、もっと怖い。
「気をつけますから・・・だから・・・」
怖いことをしないで。あの人に告げないで。
・・・・・・・・え?
あずさは頭を振る。何、今の。
金子先輩が好きだから、離れたくない。そうだよね。
光伸はあずさの様子を眺めている。
それは、研究者が実験動物を眺める様に似ているのだが、あずさは気づかない。
「時に火浦君。小使いさんに関して、どう思う?」
突然、話題が変わってあずさは驚く。そして、その内容にも。
「小使いさん・・・? あの、箒を持って学内をうろうろしてる?」
「ああ。」
光伸の目が細められる。
「ええと・・・別に。話したことも無いし。」
何故、突然そんなことを聞くのだろう。
先輩は、あの人と何か関係があるんだろうか。
あの・・・あの・・・。
頭が痛い。
思い出したらいけない。
思い出したら、怖いから。
思い出さなければいい。無かったんだから。本当じゃ無いんだから。
「火浦君。」
また、腕に光伸の体温を感じて、あずさは正気に戻る。
金子先輩は優しい。
そう心の中で呟くと、ひどく落ちつく。
離れたく、無い。
「大丈夫です。済みません。なんか最近、頭が痛くなることが多くて。」
優しい金子先輩の同情を引くための言葉。
「気をつけたまえよ。」
案の定、先輩は優しく頭を撫でてくれる。
「ありがとうございます。」
あずさは頭を下げる。
「それじゃ、帰りたまえ。そして、僕にもう構うな。」
頭をあげたあずさの目に映ったのは、口元を歪めた光伸。
「・・・」
寂しくて、悲しくて、涙が零れる。
あずさは黙ったまま金子の部屋を出た。
「その方が、お前のためだ。」
扉を閉める瞬間に、そんな声が聞こえた気がした。
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